父の葬儀で喪主を務めることになった時、私は悲しむ暇もなく、次から次へと決断を迫られました。その中でも、特に私の心を悩ませたのが「供物」をどうするか、ということでした。葬儀社のカタログには、様々なランクの果物の盛籠が並んでいます。値段も一万円から三万円以上と幅広く、どれを選ぶべきか全く見当がつきませんでした。私の心の中には、いくつかの葛藤がありました。一つは、世間体です。「喪主として、あまりみすぼらしい供物では、親戚にどう思われるだろうか」という見栄。もう一つは、「父はそんな形式ばったことを喜ぶだろうか」という疑問でした。父は生前、甘いものが大好きで、特に近所の和菓子屋さんのどら焼きには目がありませんでした。カタログの立派なメロンよりも、あのどら焼きを山ほど供えてあげた方が、父はきっと喜ぶだろう。しかし、そんなことをして、果たして葬儀の供物として許されるのだろうか。そんな私の悩みを見透かしたように、葬儀社のベテラン担当者の方が、静かにこう言いました。「一番大切なのは、故人様を思うお気持ちですよ。形式も大切ですが、心がこもっていなければ意味がありません」。その言葉に、私ははっとさせられました。私は、誰のためでもない、父のための葬儀を執り行うのです。私は意を決し、葬儀社には中くらいのランクの盛籠を一つだけお願いし、あとは自分たちで用意することにしました。そして、葬儀の前日、弟と一緒にあの和菓子屋さんへ行き、山のような量のどら焼きを買いました。当日、祭壇の立派な盛籠の隣に、無造作に積まれたどら焼きの山は、少し滑稽に見えたかもしれません。しかし、それを見た親戚たちが「お父さん、これ大好きだったもんね」と、涙ながらに微笑んでくれた時、私は自分の選択が間違っていなかったと、心から思うことができたのです。