父が亡くなり、私が喪主を務めることになった時、正直なところ、私は深い悲しみに浸る余裕すらありませんでした。ご逝去の連絡を受けてから、葬儀が終わるまでの数日間は、まるで嵐の中にいるような、怒涛の時間でした。葬儀社の担当の方に導かれるまま、次から次へとやるべきことをこなし、無我夢中で喪主という役割を演じていたように思います。しかし、そんな中でも、私が喪主として「これは本当につらい」と心から感じた瞬間が二つありました。一つ目は「遺影写真の選ぶ」という作業でした。葬儀社の担当者から「お父様らしい、一番良いお顔のお写真をご用意ください」と言われ、母と二人で古いアルバムをめくり始めました。そこには、七五三で緊張した面持ちの私を抱く若い父、社員旅行ではしゃいでいる父、そして、孫である私の息子を、満面の笑みで抱き上げる、晩年の父の姿がありました。一枚一枚の写真を見るたびに、父との思い出が鮮やかに蘇り、そのたびに涙が溢れてきて、作業が全く進まないのです。何十枚もの笑顔の父の中から、たった一枚の「最後の顔」を選び出すという行為は、父の死という現実を、最も残酷な形で私に突きつけてきました。そして、もう一つは、通夜や告別式での「弔問客への挨拶」です。父のために駆けつけてくださる方々に感謝を伝えるのは、喪主として当然の務めです。しかし、次々と訪れる弔問客一人ひとりに対して、同じように頭を下げ、「ありがとうございます」と繰り返すうちに、私は自分が感情を失ったロボットのようになっていくのを感じました。悲しみを表に出すこともできず、ただただ喪主という役割を全うすることだけに神経をすり減らしていく。あの、自分の感情を押し殺さなければならない時間の長さは、今思い出しても胸が苦しくなります。喪主のやるべきことリストには、こうした精神的な苦痛は書かれていません。しかし、これこそが、喪主が担う最も重い務めなのかもしれません。
私が喪主として一番つらかったこと